「存在」という言葉は、当たり前のように「ある」ものではなく、特別なものと感じることがある。
ときとして私たちは自分軸でものごとを考える。
そして「自分の居場所はここではない」と判断したりする。
でも、それでもその場所に存在できる。
なぜなら、「存在することができる」から。
ちょっと我慢してみる。
他者から指摘されたことを改善してみる。
家族や友人に愚痴を聞いてもらう。
無視してやりすごす。
ときとして、それがストレスとなり体や心を壊すかもしれない。
そんなときは、病院に行く。休みを取る。
考える時間を取るともっと休もう、仕事を辞めよう、勉強をし直して転職先を探そうと「抜け出せる道」を考え、歩める可能性もある。
私たちは「存在」を自分自身で守るために、日々、生きている。そんな気がしてならない。
でも
そもそも「自分の存在を示すものがこの世にない」としたら
辛くても誰にも気にされない。
病院に行っても診療してもらえない。
勉強しなおそうにも学校に入れない。
家族同士が助け合うことなく、ののしり合う。
でも、なにかをしないと生きるためのお金を得られない。
そして、その負のループから抜け出す術は何一つないのだとしたら・・・。
「存在のない子供たち」は出生届もなく、生きている証のない家族のものがたり。
その負のループはメビウスの輪のように張り巡らされ、そこから抜け出すことは不可能のように思われる。
その負のスパイラルの中にいる12歳の少年が「僕を生んだ罪で」告訴する。
それは怒りを増長させ負の連鎖を生みだすだけではないかと思うかもしれない。
でも、「声を上げること」がそれを断ち切る唯一の解決策だったと思わざるを得ない。
最後、写真を撮られる主人公ゼインが手にしたIDがそれを物語っている。
これは中東のスラム街を生きる「生まれた証」を持たない家族を取り巻く物語だ。
でも、私たちの心のどこかに存在する「孤独」や「存在」という言葉に求める何かを代弁してくれている気がしてならない。
主人公のゼイン、そして出演者の迫りくる演技に、125分間、目が離せなかった。
レバノンの名優たちかと思ったら、彼らは監督に見つけ出された素人だった。
内戦、貧困、ゆえの不法労働の悪環境に身を置く人たちが出演している。これは演技ではなく、彼らの叫びだ。彼らが今までの人生で感じた不条理を、この映画の中で静かに、でも魂を込めてぶつけているのだ。
そしてその魂の叫びに共感するのは、
人間にとって私の「存在」とはなにかという問いは
生きていく上で根本的なものだということだ。
「存在」という言葉に、ちょっとでも心の揺れを感じている人全員に、見てもらいたい。
これはフィクションであり、フィクションではない。
「声なき声」を映画にして世の中に知らしめてくれた監督に心からの感謝を!
映画の中の主人公ゼインのように、困難の中にいる人たちが映画に出演し声を上げたことで、これからの人生の矛先を示す光が見えたのではないか。そう信じている。
存在のない子供たち