弘前大学教育学部附属中学校の同窓会報に寄稿しました

ライティング

卒業してからだいぶ経ちますが、同窓会の事務局よりお声がけいただき同窓会の会報に記事を書きました。

みなさん、中学校時代の思い出を書かれている場合が多く、私もそれに合わせようと思ったのですが、中学校時代の記憶が欠如しており文字数をクリアできないことが分かりました…。

みんな気になっているのは、中学校時代の思い出よりも、中学校を卒業した後何をしたのかだと思うので、大学のこと、仕事のことを中心に書きました。

毎年多くの卒業生を輩出している中、その一人に選んでいただきありがとうございます。

同窓会報は紙でしかないので、記録までに原稿をここに貼り付けます。

人は常に根っこを問う

弘前大学附属中学校の3年間の思い出を書くと、それだけで1冊の本になってしまう。一つだけ選ばなければいけないとしたら、私は「根っこの歌」の存在をあげたい。根っこの歌が附中生の精神の根幹部分を作り上げているといっても過言ではない。また「根っこの歌」が歌えれば、どの年代の卒業生とも仲良くなれる、まさに魔法の合言葉なのだ。

そして「根っこ」の大切さを、18歳で弘前を離れたあとのアメリカでの7年とカンボジアでの8年、合計15年間となった海外生活、その後、日本への帰国後に支援活動に入った東日本大震災の現場で実感することとなる。

初めて「根っこの歌」を聞いて

最初に「根っこの歌」を習った時、不思議な印象を受けた。校庭をつくるときに切り出されたいたやもみじの木の根っこの歌。中学生など若い人に向けたものなら、未来への希望に満ち溢れた「青々と太陽に向かって伸びる木の歌」になりそうなものだ。それが、木を切られた根っこを語った歌なのである。

でもその根っこはただ朽ちていくものではない。「総身のふしくれだちたる 不屈の構え」をしており、「ももとせをいくたびか汝はめぐれる」時代を超えた存在なのである。

そして「不屈の王者」「簡素の美女」「われらの太陽」「心のふるさと」と、その時々の人の心の変化に合わせて、木の根っこは私たちの中に最適な形として存在するのである。

18歳、単身で津軽からアメリカへ

高校を卒業した私はアメリカに留学する道を選んだ。1991年4月に渡米してすぐに大学に入れたわけではない。最初は、外国人留学生を集めた英語のコースに入り、TOEFL(英語圏の大学へ留学・研究を希望する者を主な対象とした英語能力を測定するテスト)の合格点を取らなければ学部入学ができなかった。

英語が好きで留学したわけではない。どちらかというと英語は附中時代「3」かたまに「2」。青森県立弘前中央高校時代も代わり映えのない成績だった。ただ歴史や文化に関心があり、アメリカを選んだのだ。

アメリカの大学の夏休みが終わり新学期となる8月末までに合格点を取りたいと、猛勉強した。朝5時に起きて勉強開始、午前9時から午後5時まで授業を取り、夕食後は自習室にこもり午前2時まで勉強をつづけた。睡眠時間は3時間程度だったが、それでも「絶対合格する」という信念を燃やした。結果、新学期を前に英語の合格点をもらい、入学の許可を得た。

しかし大変なのはそれからだった。アメリカの大学は「入るのは簡単だが、卒業は難しい」といわれているが本当にそうだ。学部に入れば英語だけではなく、さまざまな学科の授業を取る必要がある。勉強時間は減ることはなく、加えて週末も予習・復習にあてないと授業についていけない。留学生だけではなく、アメリカ人の中にも退学を決めた学生もでてきた。

眠くて辛くて、苦しい毎日だったが、ある日の真夜中過ぎに、私の口から「けっぱるぞ」という言葉が無意識に、でも、自然と出てきた。そうつぶやいた自分自身がおかしくて「なんぼ、じょっぱりだじゃ」と学生寮の部屋で一人、大笑いした。

どんなに逆境に置かれたとしても不屈の精神で立ち向かうこと、そうすれば切り株から芽が出ることもある―それが大学時代の心の支えとなった。結果、卒業式では2人しかもらえない学長賞に選ばれた。そう、芽が出たのだ。

カンボジアで絵本と紙芝居をつくる

「本を書ける人がいません。みんな殺されました。大半の本も燃やされました」

1993年カンボジア王国が正式に成立してからまだ4年しかたっていない1997年5月、アメリカでの生活を終えて次に向かったのが、まだ内戦中のカンボジアだった。そのとき、カンボジア人から聞いた言葉だ。

カンボジアは内戦でカンボジアは「知」の源流が絶たれてしまっていた。1975年~1979年まで続いたポル・ポト政権下、国民の5人に1人が命を落とした。本は余計な知識を与える産物として燃やされた。首都プノンペン市にある国立図書館は豚小屋として使われ、内戦終結後も図書館の本はほぼ利用不可能な状態だった。聞いた話だと鉛筆を正しく持てるだけで、スパイ分子として処刑場に送られたという。

そう本だけではなく、物語を書ける「人」までがいなくなってしまったのだ。

しかし、物語は残っていた。兵隊に見つからないようにと洞窟などに本を隠した人たちがいたのだ。内戦前に編纂された「クメール民話集」、民俗伝承集などから物語を選んだ。

当時のカンボジアは高齢者が人口に占める割合が3%程度。内戦で体力のない高齢者の多くが亡くなったからだ。「いま、物語を聞き取らないと、絶滅してしまう」と、村々を回り、民話を録音させてもらった。昔話を聞かせてほしいといわれた村人はさぞかしびっくりしたことだろう。それでも、記憶の糸をたどりながら、お話をしてくれた。

カンボジアは山が一つあれば、その山にまつわる物語が存在する。女性が身にまとうシルクの柄は鱗の模様をしている。「それは、カンボジア人は龍の子孫だからさ」と楽しそうに物語を話す村人の顔を見ながら「カンボジアは物語でできた国だ」と思った。

「木を枯らすなら根から破壊しろ」恐怖政治を行ったポル・ポトはこういい、多くの人民の命を奪っていった。ポル・ポトは知っていた。根っこがどれだけ恐ろしいかを、「不屈の王者」「簡素の美女」「われらの太陽」「心のふるさと」を持つ人間の強さを。

私が携わった絵本や紙芝居を出版する工程の中で「私たちは祖先から伝わる物語の根を途切れさせない」と多くのカンボジア人が口にした。それはポル・ポトへ叩きつけた挑戦状であり、惨悽たる過去との決別に向けた覚悟のように聞こえた。

カンボジアで本や紙芝居をつくることは、ただ教材をつくることではなかった。失いつつあったこの国の「物語」を、カンボジアの人の「記憶」と「自身の手」でよみがえらせることだった。そして、バトンを受け取った若者が、新たな物語を描いていってほしいという願いの結晶だった。

そう、根っこさえ残っていれば、「ももとせをいくたびか汝はめぐれる」のだ。

ご位牌と母子手帳

15年間の海外生活を終えて日本に戻ってきた。その後、起きたのが2011年3月11日の東日本大震災だった。私が仕事をしていたNPO団体は緊急救援室を持っていたため、3月16日には職員が現地に派遣された。

現場に入ったスタッフの報告によると、家があったところに戻った人々は仏壇のご位牌を探していたそうだ。「自分の代で途切れたらご先祖様に申し訳ない」と。

そして若い女性は母子手帳を探していたという。「多くの命が奪われたこの大地で、いま生まれた命を守りたい」と子どもの記録が刻まれた手帳を探していたのである。

苦しかったアメリカでの生活、内戦の傷跡が深く残るカンボジア、すべてを破壊した東日本大震災。極限の状況の中でも、しっかりとした根っこを持っていたら、どれだけ強い風が吹いても地面に足をつけていられることを知った 。だから、人は根っこを探す、根っこを守る。

現場担当をしていた岩手県陸前高田市の丘の上で、こみ上げる思いを胸に、根っこの歌を口ずさんだ。

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