数年前だったか日経ビジネスアソシエの中に東京大学のエグゼクティブ・マネジメント・プログラム(EMP)についての記事がありました。
東大EMPは、将来の組織の幹部、特にトップになる可能性のある40代の優秀な人材を主たる対象にして、これまで国内外のどこの教育機関も提供していない高いレベルの、全人格的な総合能力を形成させるような「唯一無二」の「場」を提供することを目的とする。
特に、世界中のどのような場所、場面に直面しても臆することなく、確かな知識と多面的な思考に基づいてその場をリードし、相手の多様な文化的背景を十分理解したうえで、納得性の高い議論を通じて課題形成し、具体的な課題解決を構築、推進できる強靭さと迫力、そして、文化の違いを越えて人を引き付ける人間的魅力を持つ人材の養成を図る。
引用元:東大EMPとは
魅力を感じつつも、学費570万円は宝くじが当たらない限り投資できないのですが、そこに通っていらっしゃる方が読んでいる本が紹介されていました。
それを一冊づつ読むことに。
本当は読んだ本を、他の人とディスカッションすることで深みが増すのでしょう。
またその分野の専門家の方から話を聞く、質問する、顔見知りになる。これこそお金を払ってでも、惜しくない機会だとは思います。
そんな「あがき」を日々しつつ。
その本が図書館にありましたので、借りに行きました。『現象学の視線 分散する理性』日本の哲学者・鷲田清一さんの著書です。
これから読みます。
学校に行けなくても、その人たちが読んでいる本は手にすることができるかもしれない。
ちなみに、勁草書房からだされたのは1989年。図書館にあったのはこのバージョンです。
現在では、講談社が文庫分として出しています。絶版にならなくてよかった。
隠蔽と強調、誘惑と拒絶、保護と破損、貞淑と猥褻。
「わたし」は絶えず2つの極に向かっては押し戻され、中間に漂う不均衡(ディスプロポーション)の中にある。
ただその間にある「隙」にこそ可視性を動揺させ、ディスプロポーションという混沌とした中からこそ「可能性」が生まれる・・・そんなことを感じた一冊。モードもしかり、混沌視した中でぶつかり合うビックバンや撹拌からこそ「わたし」が生まれるのでは。
私が読書メーターに書いた不思議な書評(笑)
まぁ、色々な本を手にしています。